言い古された言葉だが「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛んだらニュースになる」というものがある。
つまり、重要であっても、当たり前の話ではニュースにならないという事なのだ。
従って、マスメディア各社が注目される(視聴率を上げる)ためには、常に特殊を探し、それをフォーカスし続けなければならないという使命が生じてしまう。
時にはフレームアップなどという禁じ手も躊躇しない。
しかし、それを見せられる善良(能天気)な視聴者は、そんな特殊な事ばかりが日本全国津々浦々で起きている、日本がおかしくなってなってしまっているのだと思うようになる。
疑うという訓練を排除してきた日本の教育(広義の)欠陥がここで露呈してしまう。
だから凶悪犯罪が劇的に減少しているという事実には絶対に目が向かない。
特殊な事件を報道して悪いと言うことは無い。
問題なのは、それを論評する側、つまりニュースキャスター、コメンテーターの拠って立つ立場、論拠が実にお粗末な事だ。
「とっさの時の聖人君子」とは、想定していない事件が、突然起きた時のコメンテーターのテクニックである。
想定していないと述べたが、実はそうではなく、最初から考えていない、あるいは考える能力を持っていないと書くべきかもしれない。
最初から意見などという高級なものを持っていない輩がコメントするのだから、聖人君子の振りをして、当たり障りの無い、つまり後から追及されないためだけのテクニックとして使っているに過ぎないのだ。
彼等はとりあえず、浅薄な博愛、人権、平等などで弱者と見做されるものを弁護する。
夜の夜中に盛り場をうろつく未成年の女が暴行されたと訴えると、訴えられた男はたちまちに卑劣極まりない人非人として糾弾される。あとで単純な金銭トラブルだった事が判明しても報道される事は無い。金銭のというが何の金銭か、などと聞くのは余程の世間知らずか、お人よしである。
報道されないといえば、国籍法がそうだった。報道管制でもあったのかと思われるほど、それは徹底していた。唯一産経新聞のみが報じたが、フジテレビでさえもスルーしてしまった。NHKに至っては報道権、編集権を盾に居直る始末であった。
逃げ回り、認知に協力しない日本人の夫、かわいそうなフィリピン女性とその子供という格好の構図を背景に、国家存立の根幹である国籍法を改悪した。つまり、日本人男性が認知さえすれば、その子は即座に日本人。DNAなどはどうでも良い事らしい。いよいよ食い詰めたら、中国でもフィリピンにでも行って、認知しまくれば手数料だけで金持ちになれるんじゃないかな。
沖縄への移民一千万人受け入れ法案などは、よほど注意していないと誰も(当然沖縄県民も)知らない間に国会通過してしまう可能性がある。
誰が、何のために移民を受け入れるのか、私にもわからない。
外国人の選挙権も、小沢代表は、早々と韓国に約束してしまっている。誰がそんな事をやって欲しいと頼んだのだろうか。こんな事もマスメディアは一切報道しない。
どこの誰とも判らない男の子供を宿した女が、医者にかかる事無く出産期を向かえ、救急車でたらい回しにされたと訴えれば、行政の怠慢だと拳をあげて怒りまくる。結果、不払いの医療費が100億円となっても、それに目を向けず人員増強を言い立てるだけだけ。ある病院では飛び込み出産八人のうち、費用を払ったのは二人だけ、中には産んだ子を放棄してどこかへ行ってしまったなどというものもいたそうだ。
我がまま勝手で、ニートだ、フリーターだ、派遣だと、何のスキルも獲得せず、いざ契約打ち切りになると、それは政府の責任だと言う。あろうことか、それに政治家までが悪乗りして政局に利用しようとする。
「内定取り消し企業は名前を公表する」などと言うに至っては、もう末期的で、自民党の消費期限切れを言うより、日本自体が期限切れになってしまっている。今後世界中の各企業は赤字決算となるだろう。その時、力を発揮するのは積立金である。財務内容が良いか悪いかが企業存続の為の条件である。それをいま、吐き出せと言う。政治家やコメンテーターは気が狂ったかのだろうか。
言っておくが、これらはすべて一部に過ぎないのですよ。大多数ではない。
特殊な事例ばかりで、大多数ではない。
特殊にばかりに目が行って、それに対処するための法律を作る。
特殊に対応した法律が、大多数の善良(能天気)な日本人にさらなる負担を強いる事になるのは当然の事である。
負担にあえぐ日本人が、その怒りの矛先を持っていくのは政治(政府)である。
自分が何をしたのか、何をしなかったのかが全く判っていない、判ろうとしない。
そんな国民の民意などにいかほどの価値も無い。
価値が無いどころか、その民意こそが日本を滅ぼす元凶なのである。


「でっちあげの民意」ということでござるか。
昔と違って、マスコミュニケーションの発達した現代では、コメンテーターの一言が大量の判官びいきをつくりだすように思えてなりませぬ。
コメディアンなんちう者が意見を述べる前に、その人物が少壮の頃から真面目に学んできているのかを先に評価するのが正しいモノの見方ですじゃ。
モノサシを間違えると正確に測れませぬゆえ、まずはモノサシの品質を確認してからコトにあたらねばならぬ。
「百日の説教も屁ひとつ」とか。
"自民党の消費期限切れ"⇒"自民党の賞味期限切れ"
と推測するが、いかが?